
沖縄では、家庭料理でもおもてなし料理でも豚肉を欠かすことができません。「なぜ豚肉が好きなの?」と聞かれても理由が分からないくらい県民になじみがある豚肉は、どうやって沖縄の食文化に定着したのでしょうか?
中国の使節団をもてなすために始まった沖縄の養豚
琉球王朝時代の沖縄には、中国からの使節団が訪れていました。使節団は琉球王国にとって重要な貿易にも深く関係するため、そのもてなしは国家プロジェクトでした。
なにしろ使節団が中国の王様にどんな報告をするのかによって経済や政治にも大きな影響が出るのですから、琉球政府としては使節団に何とかして良い報告をしてもらわなければいけません。その上でも「食のおもてなし」はとても大切なことでした。
ところがそこに大きな問題がありました。
当時の中国では豚肉を使った料理が一般的でした。
使節団一行は総勢400人と規模が大きく、彼らが1日に食する豚は20頭にもなりました。
しかも長い時には250日にわたって沖縄に滞在していましたから、「20頭×250日=5000頭」ととんでもない数の豚が必要になります。
当然これだけの数の豚を確保することは容易なことではありません。
飼育をするにしても豚の肥料を確保することが難しかった沖縄では、国の政策として養豚を始めてもなかなかうまくいきません。
そのため豚を自力で確保することができない場合は、奄美地域から緊急輸入をしてしのいでいた時期もありました。
この状況が大きく変わったのが、サツマイモの普及です。
これによって豚のエサが安定して確保できるようになったため、養豚が沖縄全域に一気に広がります。
もちろんこの状況は毎回豚の確保に頭を悩ませていた琉球政府にとってありがたいことでしたが、庶民にとっても大きな変化のきっかけとなります。
養豚をすることによってそれまでまったく口にすることがなかった豚肉が食べられるようになったため、庶民の間でも豚肉を使った料理が広がっていったのです。
これが沖縄の豚肉文化の始まりと言われています。
身近にあってもめったに食べられなかった豚
琉球政府の政策として強制的に始められた沖縄の養豚ですが、庶民にとって必ずしも身近な食材というわけではありませんでした。
豚は貴重な家畜ではあるのですが、今のように毎日の食卓に欠かせない食材というわけではありません。
正月や冠婚葬祭など限られたときにしか豚を食べることはなく、主食は芋という質素なものでした。
とはいえ豚肉の味を非常に気に入っていた庶民たちは、年に数回しか食べることができない豚肉をとても大事にしました。
そのため沖縄では豚の肉だけでなく内臓、血、皮まですべてを食べる調理法が発達します。さらに少しでも長く貯蔵するための保存法も開発されました。
もちろん豚の脂も貴重な食材ですから、昔は「油壷」と呼ばれる容器に豚の油を入れ1年かけて大事に使っていました。
このようにめったに食べることができない豚肉だからこそ、沖縄では様々な調理法や保存法が独自に編み出されたというわけです。
ちなみに琉球政府が豚肉制限を行ったときには、豚肉を食べられなくなった百姓5000人が畑仕事をストライキして猛抗議したこともあったとか…。
この頃にはすでに沖縄の庶民の間に豚肉食が定着していたといえるでしょう。
配給品のポーク缶が沖縄の食文化を劇的変化
太平洋戦争の後、沖縄はアメリカ軍の駐留が始まります。この時に配給品として大量に沖縄に流入してきたのが、豚肉のランチョンミートを缶詰にした「ポーク缶」です。
もともと沖縄は豚肉を使った料理が多いので、ポーク缶という異国の食べ物にも基本的に抵抗はありませんでした。
しかも気温の高い沖縄ですから、日持ちのするポーク缶は非常にありがたい食材だったのです。
さらにポーク缶は保存食ですから、塩味が強めにきいています。そのおかげでポーク缶一つあればご飯のお供にもなりますし、塩を使わなくても十分に味付けが出来るので調理の手間も調味料もカットできます。
つまりポーク缶のマルチな能力のおかげで、沖縄の食文化は劇的に変わったのです。
そしてその影響は今でも続いており、沖縄を代表する食材にもなっています。
沖縄県民の豚肉好きには沖縄の歴史が関係していた
今でこそ豚肉は手軽に手に入る身近な食材です。でも沖縄県民にとっての豚肉は、単に身近な食材とは言い切れない深いつながりがあります。
豚とのかかわりは時代の流れとともに変化しますが、沖縄の食文化に深く関係していることには変わりません。
だからこそ沖縄県民の豚肉好きの秘密を探ると、琉球王朝時代から現在に至るまでの沖縄の歴史が見えてくるのでしょう。