
天才と呼ばれる人には様々な伝説が残されていますが、沖縄にも数奇な運命を負いながらも天才絵師として活躍した人物がいます。その名は自了(じりょう)。今回は琉球王朝時代の天才絵師・自了を紹介します。
生まれながらにして耳が聞こえず話せなかった自了
伝説の沖縄天才絵師の名は、自了(じりょう)といいます。本名は城間清豊(ぐすくませいほう)といい、島津藩が琉球に進行して間もないころに活躍しました。
自了は、1614年に首里士族の長男として生まれました。父親である城間清信は非常に優れた芸能人で、琉球の楽師たちを率いて江戸に赴き、当時の将軍であった徳川家光公の前で舞楽を披露したこともあります。そんな父を持つ自了でしたから、当然周囲からの期待も大きかったことでしょう。何よりも自分の後を引き継ぐ長男が誕生したのですから、父である清信の喜びも大きかったはずです。
ところがしばらくすると、大切な跡取り息子の様子がほかの子供と違うことに父も気が付きます。実は自了は生まれつき耳が聞こえなかったのです。そのことが分かった父は、自了に自分の後を引き継がせることを諦め、弟にだけ読み書きなどの教育をすることにします。
身をもって物事の心理を知ることで学んでいった自了
耳が聞こえず話すこともできない自了でしたが、実は人一倍好奇心旺盛な子供でした。でも耳の聞こえない息子に対して、父親はどう向き合ってよいのかわからずにいました。そのため自了が興味を持ち身振り手振りで父親に質問をしたとしても、父親がその質問に真剣に取り合うことはありませんでした。それでも自分が興味を持ったことや疑問に思ったことに対して、その真理をわからないままにしておくことが出来なかったのが自了でした。
そこで自了は、自らの疑問がわかるまで注意深く観察し続けることにします。何度も繰り返し観察しているうちに、物事の仕組みや道理が理解できるようになっていった自了は、その後も何かにつけて沸き起こる疑問や興味を自らの観察力によって学んでいきます。
国王に才能を認められ宮中で絵を学ぶ
ハンディを負いながらも多彩な少年であった自了は、絵も独学で学んだといわれています。その絵の才能のすばらしさはあっという間に周囲に知れ渡り、いつしかその噂は宮中にまで届き、さらには自了の作品が国王の目に留まることになります。
自了のすぐれた才能に心を打たれた国王は、12歳の自了を宮中に招き、様々な名作を見せながら絵を学ばせます。もともと観察することによって自ら学ぶことを続けてきた自了でしたから、瞬く間に腕を上げていきます。二十歳のころにはすでにその作品にも大家としての風格が漂っていたといわれていて、当時琉球を訪問していた中国からの冊封使がその作品を見ても「中国の有名な絵師の作品と比べても見劣りしない素晴らしい絵だ」と高く評価したという話が残っています。
狩野安信に「友にしたかった」と言わしめた自了
自了の絵は1644年に江戸に派遣された琉球使節団によって、当時江戸を代表する絵師として活躍していた狩野安信の目に留まります。その絵を見た狩野安信は自了の才能に驚きつつも、その素晴らしさを絶賛したといいます。そして「もし自了が我が国にいたなら友にしたかった」という文章を添えた絵を、帰国する琉球使節団に手渡したといいます。
残念ながら自了がその言葉を目にすることはできませんでした。自了は琉球使節団が帰国する直前に、30歳という若さでこの世を去っていたのです。
自了は30年という短い生涯でしたが、その中で素晴らしい作品を多くこの世に残しました。代表作には「竹林七賢」や「仙人図」などがありましたが、残念ながらこれらは沖縄戦によって焼失してしまいました。
現在、自了の作品であることが唯一確認されている「白澤乃図(はくたくのず)」は、沖縄県指定有形文化財となっています。